生徒指導
2022.4.5 担当:赤石
「何か興味のあることや、やりたいことはないの?」
「喫茶店で好きなレコードを聴きながら、おいしいコーヒーを飲むおじいさんになりたいです。」
粋なことを言うな、と思いつつ、
「『おじいさん』になる前を考えよっか!」と答えたのをつい最近のことのように思い出す。
3年前の春、初めて会った「彼」との会話である。
その後、彼が「被災者」であることを知った。
独学で学んだギターの上手い、長身で寡黙な少年である。母上に「セクハラかもしれませんが」、と断ったうえで、「かっこいいですよね」と言ったことがある。中学からなんとなく登校しなくなり、この3年間も週1回現れるか現れないか。登校したときはレポートの疑問点を教えるという関わり方。登校回数は少ないものの真面目だった。被災経験があると知る前からとにかく生きることに真摯な子だなという印象を持っていた。
登校したときはポツリポツリといろいろな話を聞かせてくれた。祖父君は捕鯨船に乗っていて、南極まで行ったことがあるそうだ。そして、船を下りたあと、海辺で小さな旅館を始め、そこで彼の母上が働いていた。そこに座礁船を修理する仕事をしている父上が宿泊し、やがて結婚・・・。自分の来し方の「切り取り方」が抜群だと思った。まるで小説のような話に私は毎回想像を膨らませていた。
しかし、具体的な「進路」は決まらない。決められない。
「実は、親戚もけっこう亡くなっているし、知り合いの赤ちゃんや小さい子どもも亡くなっているんです。『亡くなった子たちの分まで頑張らなきゃだめだよ』とか言い過ぎたんでしょうか・・・」
あるとき、母上から言われて、はっとした。まさにその通りかもしれない。真面目な彼は、自分の人生に多くの人の人生を被せてど、自分がどうしていいのかわからなくなってしまったのではないか。ただ、自分も親なら確実に一度はそのようなことを子どもに言うだろう。言ってしまうだろう。
「亡くなった人の分まで」とはよく聞く言葉で、そういう言葉を発する人はたいてい「乗り越えてしまった」人か、「乗り越えられる」人である。被災者を巡る新聞報道でもプラスの意味でよく目にする言葉だ。実は正直私はこの言葉がキライである。亡くなった人に失礼でないかと思うからだ。亡くなった人は、たとえ短くてもその人の人生の「春夏秋冬」を終えて去っていった。その人の「分」をなんで他人が生きるのか。もちろん、そういう思いで頑張っている人を全く否定する気はない。しかし、一方では生き残った人を追い詰める言葉でもあるのではないかと思う。そんなに気負わなくてもいいんだよ。
卒業を目前に、私もどうしていいのか正直わからなかった。「人生は長いよ。今、決めなくても・・・」と思ったり、でも、親ならやはり「どこかに所属してほしい」だろう。方々調べて専門学校を回ってパンフレットをもらって話を聞いたり、とにかく彼に選択肢を提示してあげようと頑張った。
結果的に、最後の最後で専門職系の大学に決まった。母上の喜びようと、本人の初めて見るような笑顔が忘れられない。なかなか外に出ない生活を続けつつも、実際は親にもとても気を遣っていた。(親御さんには手紙を書いて彼の「語録」を話しておいた。)祖父君が一番喜んでくれたと話してくれた。
毎年、毎年、いろいろな生徒さんとそのご家庭に出会う。当然相性もあるので、全てが上手くいくわけではない。しかし、こういう素晴らしい体験を1年で何回か体験させてもらうと、縁とはありがたいものだと思う。
「専門職の大学だから、そこに染まれずつらいならやめていい。結果的にそれが『やりたくないこと』だったとしても、『やりたくない探しの旅』もあとになると意味のあるものだったと思えるかもしれないよ。」私も彼とのかかわりで成長させてもらったと思う。つまり、今となれば自分の子どもにもそう言える気がするのである。
月並みであるが、やはり人は、人との縁の中で成長するものなのではないか。毎春、そう思う。
ワン!ワン!